人を集めたい大学院

 この原稿を書くにあたり、前田さん(仮名)とその周囲の方々より情報を提供していただきました。記してお礼申し上げます。また、他に参考になるご意見を頂戴した数多くの方にも、感謝いたします。
 なお、この話はある程度実話に基づいたものですが、かなりフィクションであることを最初に申し上げておきます。(どこがフィクションかは読めば分かります)

 少子化時代の大学院経営

 今、日本が少子化社会であることは改めて申すまでもありません。同時に高齢化が進行しているわけですが、大学では少子化の影響を直接受けます。18歳人口が減少することは、すなわち大学に入学する学生の減少を意味します。高校卒業者の約半分が大学に進学しているといわれていますが、大学に進学したいと希望する学生は学校さえ選ばなければ大学に進学できるという、いわゆる大学全入時代を迎えています。それでも、レベルの高い大学では依然として受験競争が続いています。受験生が大学を選ぶから競争が起こるのであり、大学全体の定員は希望者全員とほぼ同じだそうです。ということは、レベルの低い大学などでは定員割れを起こしていることになります。少子化が進むわけですから、今後この流れはますます加速していくと考えられます。すると、大学の経営は成り立たなくなり、大学の倒産が起こるでしょう。大学が倒産すれば、そこに働く教職員は職を失うことになります。大学院を出て、なんとか教員のポストを得たとしても、その大学が潰れると、職を失うという危険があります。
 大学は人件費を抑えようと、教員を採用せず非常勤講師で賄おうとします。非常勤講師というのは要するにアルバイトの先生です。専任の先生と同じく授業を受け持ちますが、給料が全然違います。研究室もありません。非常勤講師という制度は、元々は各大学で専門の先生を揃えるのが難しいため、よその大学から専門の先生を呼び寄せ、自分の大学で教育を手伝ってもらうための制度でした。つまり、本務校をもつ先生同士が行き来して、言ってみれば先生同士の交換のようなことを目的としたものです。それが今では、本務校をもたないオーバー・ドクターをはじめとした人たちが非常勤講師を担っています。
 非常勤講師の話は、また別の回に改めて書きたいと思います。

 若者がいないなら社会人だ

 支出を抑えるだけではなく、収入を得なければ大学経営は成り立ちません。しかし、学生の数はどんどん少なくなっていきます。そこで大学が考え出したのが、18歳以外の人たちに大学に来てもらうという制度です。生涯学習などという言葉がありますが、それをうまく利用して、大学に社会人を入学させるようになりました。仕事をしながら夜間に大学に通うサラリーマンもいれば、昼間の授業を学生たちと一緒に受ける主婦や定年退職者もいます。こうした人たちも学費を納めて大学に来るわけですから、大学にとってみればお客様です。勉強したい人が大学で学生たちと一緒に勉強するということは、よいことだと思います。もちろん、この表現は適切ではなく、社会人入学の方も学生の身分があるわけですから、学生と同じ権利があります。単位ももらえますし、学位ももらえます。(試験やレポートも同じです。学割定期券が買えます)
 ところが、これは何も大学(学部)に限ったことではなくなってきています。大学院でも社会人を積極的に受け入れようという動きがあります。専門職大学院は働きながらキャリアアップを図るという意味合いもありますから納得できますが、旧来からある研究大学院にも社会人の方々が入ってこられます。働きながら、その仕事と関係のある研究をされ、論文を書いて学位を授与されるという方々もおられます。その努力は並大抵ではないだろうと思います。そういう意味では、大学院が社会人に開かれていくことはすばらしいことだと思います。
 ところが、問題もあります。主婦の前田さんは社会人入試で大学院に入りました。前田さんは自営業の夫と結婚し、夫の両親と同居していました。家で商店を営む前田さんのご家族は皆、一日中自宅にいます。ところが、前田さんと姑との仲が険悪となり、家庭環境はとても複雑なものでした。前田さんの夫が極度のマザコンだったことが前田さんをより一層苦しめました。
 前田さんは暇を見つけては近所の図書館に通い、趣味の○○の本を読むようになりました。自宅に夫や姑がいる前田さんにとって、つかの間の休息だったのです。
 そのうち前田さんは読んだ○○の本のうち、とくに△△教授の著作に興味をもつようになりました。△△教授は前田さんの自宅から1時間ほどのところにあるα大学の教授でした。ホームページでα大学を覗いてみると、△△教授のページに「○○に興味のある方、私たちと一緒に勉強しませんか?」という感じで誘うメッセージがありました。そして、○○に関する勉強会(実際はおそらく研究会だろうと思う:筆者注)の開催予定を見つけ、前田さんは思い切ってα大学で開かれる勉強会に参加してみることにしました。
 勉強会には、△△教授のゼミ生数名が集まっていましたが、教授の最近書いた論文を読みながら、他の人の文献と比較検討するという内容でした。ゼミ生以外の参加者は、前田さん以外に他大学の院生が数名いました。配布されたプリントは前田さんには難しくてほとんど理解できないものでしたが、△△教授の話は分かりやすく、充実した時間を過ごせたと喜びました。そして何より、△△教授と直に会えたことに感動しました。分からないことはディスカッションの時間に質問し、教授や院生が丁寧に教えてくれました。
 勉強会が終わったあと、懇親会がありました。せっかくの機会だと思って前田さんも参加し、そこで△△教授と直接話すことができました。前田さんは自分が教授の著書に関心があることを伝えるとともに、日々抱いている疑問を直接教授にぶつけました。教授はすごく丁寧に答えてくれたといいます。そしてその帰り際、「よかったら、うちの大学院に来ませんか?」と誘われました。
 前田さんは結婚前、四年制大学を卒業していました。つまり大学院入学資格があります。大学から遠のいて随分経過しますが、自分のあこがれであった△△教授から直々に大学院に来ないかと誘われた前田さんは、舞い上がってしまいました。前田さんは早速、募集要項を取り寄せ、大学院の受験を決意しました。社会人入試では、なぜか一般入試と異なり、筆記試験がすべて免除され、口頭試問だけでした。しかも、口頭試問の面接室に入ると、面接相手はあの△△教授だったのです。他にもいましたが、質問をしてくるのはほとんどが△△教授だったといいます。そして、見事?に合格しました。
 α大学は学部生の減少、とくに受験生の減少によって収入が伸び悩み、学部によっては定員割れを起こす事態でした。そこで、大学院の定員を増やし、積極的に入学させるという方針だったのです。とくに社会人の場合は就職の心配が要らないため、受け入れる側にとっては好都合でした。お金も他の学生と同額を納めてくれる、(言い方は悪いですが)都合の良いカモだったのです。もちろん前田さんは、そんなことは知りません。

 大学院に入学したけれど…

 念願の大学院入学を果たした前田さんですが、待っていたのは試練でした。大学院は今までの趣味と違い、△△教授の授業だけ受けていればいいわけでも、○○の勉強だけしていればいいわけでもなく、それ以外の科目の授業も受けなくてはいけません。興味をもって受講してみたのはいいのですが、内容はちんぷんかんぷん。しかし、周りにいるのは学部から上がってきた若者がほとんどで、基礎学力もそれなりに持っていました。両者の差は、歴然としてきたのです。
 やがてゼミで発表することになりました。前田さんは自分なりにはすごく努力して準備したつもりだったのですが、発表の受けは悪く、周囲から呆れられてしまいました。そんな前田さんに、一人だけ親切に接した院生がいます。博士課程(つまり前田さんの先輩)に当たるこの院生は、実は前田さんの学生時代の恋人によく似ていました。前田さんは今の夫と出会う前、大学時代に熱い恋をしました。前田さんが男性に告白された最初で最後の経験でした。初めて、自分の肉体を委ねた相手でした。前田さんは先輩に優しくされることで、あの頃のことを思い出しました。自分も若かったあの頃、楽しかった彼との思い出、そして、熱く長かったあの夜…
 自宅にいるのが嫌だった前田さんは、授業がない日でも片道1時間かけて大学に通うようになりました。研究室や図書館で、真面目に勉強していたそうですが、実際にはお掃除のおばちゃん、学食のおばちゃんなどと井戸端会議をしていた時間が長いようです。
 ある夜のこと、前田さんが帰宅しようと大学を出たところ、あこがれの先輩が歩いていました。彼はこれから食事に行くところでした。前田さんは家に帰ってから軽く食事を済ませようと考えていたのですが、せっかくの機会なので、先輩と一緒に食事に行くことにしました。食事中も会話は弾みました。軽くお酒を飲んだこともあり、前田さんは楽しくなって興奮し、ついつい時間の経つのを忘れてしまいました。前にいる先輩の姿が、自分の中で無意識のうちに昔の彼氏に変わっていたのでした。ほろ酔い気分の前田さんがふと時計を見ると、もう終電に間に合わない時間でした。慌てる前田さんに、先輩は近くに一人暮らしをしている女の院生に泊めてくれるように頼む電話をかけたのですが、彼女は留守。前田さんは先輩に、今夜一日だけ泊めてほしいと頼んでしまったのです。酔っていなければこんなことを言い出せないのでしょうが、つい本音がぽろっとこぼれてしまったという感じです。一方の先輩は、まさか自分より随分年上のババアを泊めても害はないと決め込み、一晩面倒を見ることにしました。
 二人は先輩の家に向かいました。前田さんは同じ研究室の院生が倒れて救急車で運ばれ今病院にいて今夜は帰れないと嘘の電話を自宅に入れました。二人は家でしばらく話しながら、先輩のもっている本を見るなどして過ごしました。あこがれの人と今、部屋に二人きりです。周りに誰もいません。前田さんはシャワーを貸してほしいと嘘をつき、脱衣を済ませた後、忘れ物だといってそのままの格好で部屋に戻ったのです。先輩は慌てましたが、時すでに遅し。いくら先輩でも、年下の男でも、男は男です。性欲ゼロなわけありません。先輩の服は前田さんによってはぎ取られ、二人は長く熱い夜を過ごすこととなったのでした。
 後日、前田さんは先輩に交際を申し込みますが、断られました。先輩は前田さんが既婚者であることをもちろん知っていました。そして、とても真面目で誠実だった先輩は、前田さんと関係をもってしまったことへの罪悪感を覚え、ついにもっとも親しい友人に相談します。しかし、これが更なる悲劇を生みました。以前から前田さんのことを嫌っていたこの友人は、前田さんが彼を逆レイプしたと怒りだし、たちまち研究室中の噂になったのです。もちろん△△教授の耳にも届いたことでしょう。みんなの前田さんに対する態度が一層冷たくなりました。

 前田さんは○○の勉強をしたいという気持ちは変わりませんでした。しかし、ここは大学院。勉強だけするところではありません。研究をしなければなりません。つまり、論文を書いたり、学会報告をせねばなりません。前田さんは、そんなことをするために来たのではありませんでした。また、入学前にも、そんなことは知らされていませんでした。修士論文に向けた指導が行われる中で、前田さんは苦悩する日々を送っています。しかし本人は、自分に基礎学力がないことも、大学院が自分の思い描いていた世界と違うということも、自分の罪によって周りが冷たくなっているということも、まったく気づいていません。自分の口から、先輩のことは誰にも話していないし、好意を寄せていることすら胸に秘めていたからです。噂になっていることなど、夢にも思っていないでしょう。
 こうなることも考えず、ただ人数集めのために前田さんを大学院に誘ったのは△△教授です。そして、彼にそのような行いをさせたのは、大学院の定員を増やして収益を得ようとした大学です。前田さんはこの先どうなるのか、無事に修士号を取得できるのか、誰にも分かりません。プライベートな行いはともかくとして、前田さんの学力がないこと、研究する気がないことなど、前田さんだけの責任として片付けてしまって、本当によいのでしょうか?


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