大学院という世界

 この原稿を書くにあたり、原田さん(仮名)、水野さん(仮名)より情報を提供していただきました。記してお礼申し上げます。また、他に参考になるご意見を頂戴した数多くの方にも、感謝いたします。
 なお、ここでは文系の大学院について書いています。理系の大学院や実験系のところでは、事情が違います。

 修士課程と博士課程

 大学院には、大きく分けて修士課程と博士課程があります。修士課程は博士前期課程、博士課程を博士後期課程と呼ぶこともあります。また、修士をマスター、博士をドクターと呼ぶことから、前期のことをマスターコース、後期をドクターコースと呼んだり、修士をM、博士をDと略すこともあります。
 修士課程は30単位以上を取得し、修士論文を提出して合格すれば修士課程修了となり、修士号が与えられます。30単位にはゼミ(演習)も含まれますので、実際に取得するのは10科目(20単位)程度です。修士課程1年目の前期にそのうちほとんどの単位を取得し、残りを後期で取得します。修士2年目はほとんど授業はなく、修士論文のために時間を使います。
 博士課程に入ると、授業はありません。ゼミだけですが、これは実質論文指導です。つまり、指導を受ける日以外は大学に来る必要すらありません。自宅で研究している院生もかなりいるようです。(実験系の場合はそういうわけにはいかないので、事情が異なります。念のため)
 大学には院生用の共同研究室というのがあります。これは先生の研究室のように個室ではなく、何人かで一つの部屋を使います。部屋には机と椅子、本棚が並んでいて、一人に机一つと本棚一つが与えられます。予備校の自習室に本棚を付けた感じでしょうか?
 原田さんは博士後期課程の院生です。大学の近くにワンルームマンションを借りて、一人で暮らしています。修士の頃はほぼ毎日研究室に通っていましたが、博士になってからは週に1〜2回しか研究室に行かないそうです。本を読んだり、パソコンで調べたりする作業は自宅の方がはかどるからだといいます。しかし実際には、机に向かって勉強する時間はどんどん短くなってきたと嘆いています。自宅にいて、周りに誰もいない環境では、ついついゴロゴロしてしまい、気がついたら眠っていることがよくあるそうです。また、インターネットで研究に関係のあることを調べていても、いつの間にか掲示板サイト(2ちゃんねる等)につないでしまい、時間を使ってしまうのだといいます。
 私が調べたところ、これは珍しい話ではありません。こういう大学院生はかなりいると思っていいでしょう。
 また、ただ研究をしているだけで生きていけるわけでもありません。研究に必要なお金を手に入れなければならないからです。原田さんは日本学生支援機構からの奨学金を受けていますが、これは博士課程の場合毎月12万程度です。その他に、学外でアルバイトをしているそうです。学費、研究に必要な費用(書籍代など)、学会や研究会への旅費など、さまざまな支出があり、それに家賃や生活費を考えると、奨学金だけで生計を立てるのは難しいようです。そのため、研究する時間を削ってアルバイトをしているとのことです。当初は研究するために仕方なくアルバイトをしていた原田さんですが、今ではアルバイトの方が本業になりつつあると嘆いていました。
 博士課程の場合、修士課程と異なり、一定年数所属して論文を出せば学位がもらえるというものではありません。博士課程は通常3年間ですが、3年で博士号を取得して修了していく人はたいへん少数です。博士は最高の学位です。それ以上上位ランクの学位はありません。そのため、そう簡単には出してもらえません。ただ、最近では大学院生の人数が大幅に増えました。その関係で、博士の人数も増えています。学位が取得しやすくなったといわれていますが、それはそれで弊害があります。いうまでもなく、学位の値打ちが下がるのです。

 博士課程が終わったら――あるオーバー・ドクターの苦渋の選択

 水野さんは博士課程3年間を終えていますが、まだ大学院にいます。博士号は取得できていません。こういう人をOD(オーバー・ドクター)と呼びます。また、博士号を取得しているのにまだ大学院に残っている人のことをPD(ポスト・ドクター)と呼びます。(ポスドクと呼ばれることもあります)
 博士課程在学中、水野さんは原田さんと同じように日本学生支援機構から奨学金(月額12万)を受け取っていました。しかし、これがもらえるのは博士課程の標準修学年限(=3年間)です。オーバー・ドクターとなった水野さんには、奨学金はありません。博士課程在学中、水野さんはほぼ毎日、朝早くから夜遅くまで研究室で研究していました。奨学金で足りない部分は学内のアルバイトをして、生活費を切り詰めて研究をしていました。食生活の乱れを周囲が心配していたといいます。しかし、それでも、水野さんは3年間で博士論文を提出できませんでした。
 ODになった水野さんの生活は一変します。奨学金が打ち切られ、経済的にやっていけなくなりました。仕方なくアルバイトの数を増やそうとしましたが、とくにキャリアがあるわけでもない水野さんが若い学生たちと競って応募しても、なかなか採用してもらえません。できるだけ時間の拘束のない仕事がしたい、それも高額なのがいいと考えた水野さんは、このサイトの別のコーナーに書いてあるようなアルバイトを泣く泣く始めました。もちろん、周囲の誰にも内緒で、です。
 自由に、いつでも出勤できるという謳い文句ではありましたが、稼ぐためにはある程度自由を犠牲にしなくてはなりません。水野さんの生活は昼夜逆転してしまい、昼間に研究室に出るのが厳しくなりました。お金が稼げると思ったのですが、実は今までもらっていた奨学金と変わらないか、それ以下の金額しか手に入れることができないそうです。
 また、水野さんには修士課程から博士課程まで5年間に奨学金として借りた650万ほどの借金があります。博士論文は一向に進んでいません。そして仮に博士論文を提出し、博士号を取得できたとしても、就職できる保障はまったくありません。
 水野さんは、毎年正月が来ると、鬱になるといいます。年賀状には同年代の友達から、「結婚しました」「子どもが産まれました」などという知らせが届けられます。みんなそれぞれ、公務員や会社員になり、それなりに安定した収入を得て、幸せな家庭を築いているのです。しかし水野さんには、出会いすらありません。大学院という閉鎖的な場所で、一風変わった人たちとばかり顔を合わせていて、知らない人との出会いといえば夜のアルバイトだけ。水野さんはかつて、そういう仕事をする人や利用する人のことを軽蔑していたそうです。でも今は、そんなプライドすら捨てざるを得ないのです。研究をやめて就職したいと思ったこともあるといいますが、新卒採用で若手の学生が採用されたとしても、自分は採用してもらえないという現実を知り、その道も諦めました。もう、水野さんには今のままで研究を続け、なんとか博士号を取得し、どこかの大学に就職できる可能性に夢を託すしかないようです。

 「実力のない奴が悪い」のか?

 大学院生や博士が突然姿を消すことがあるようです。将来に絶望し、生きる希望を失い、自ら命を絶つ人もいます。博士のうち100人中8人の割合で、行方不明・自殺がいるという指摘もあります(→参照)。しかし、社会問題になっていません。もし、100人中8人の高校生が行方不明になるか自殺しているというデータがあれば、間違いなく社会問題になるでしょう。
 こんなことは、一般人のみならず、大学院に入ろうとする学部を卒業したばかりの学生も、ほとんど知らないでしょう。彼らを受け入れた大学も、指導教官でさえも、こうした現状を(知らないわけないのですが)知らん顔をしています。とくに何らかの対策を講ずることはありません。なぜなら、こういった犠牲の上に彼らの地位が保全されているからなのです。失踪したり自殺したりした博士も、院生の頃は学費を納めました。低賃金(場合によっては無償)で教授の研究の手伝いをしました。彼らがいてくれたからこそ、自分は日の目を見ることができたのです。しかし、教授たちは彼らに感謝などしません。「実力のない奴が悪い」という理屈があります。そうです。彼ら自身が、そうやって育ってきたのです。大学院を出て、常勤ポストを得、教授(場合によっては学部長、学長など)の社会的地位を得る裏で、その何十倍もの人たちを蹴落としてきたのです。彼らに敗れた人の中にも、失踪したり自殺したりした人もいるでしょう。歳を取っても非常勤講師のままで不安定な生活をしている人もいるでしょう。しかしそれらはすべて、「実力のない奴が悪い」として片付けられるのです。いや、そうやって合理化しているだけです。
 さらに皮肉なことですが、そうやって生きている大学教授が、偉そうに格差社会を批判し、教育現場に競争原理を持ち込むのは良くない、ゆとり教育をしましょうなどと、日教組とタッグを組んで発言しているのだから、笑ってしまいます。いや、実はこれは彼らにとって戦略なのです。若手の新進気鋭の学者など、彼らは求めていません。もしそんな人たちが多数現れたら、自分たちの立場が危うくなります。そうです。彼らが必要としているのは「実力のない奴が悪い」と一喝してしまえるような学生たちなのです。レベルの低い学生が増えたと嘆いていますが、それは表面上のこと。裏では、これで自分たちの地位も当面は安泰だと胸をなで下ろしているのです。
 このままでは大学院の行く末が心配です。しかし、今美味しい思いをしている人たちは、そのころにはもう退職していて大学にはいません。あるいは、すでに死亡しているかも知れません。あとがどうなろうと、自分たちには関係ないのです。


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